Alpha Commentary: PBRを考える②~純資産価額は株式価値の下限となるか?
バリュエーションの実務において、純資産価値が株式価値の下限となる、という考え方があります。日本公認会計士協会による企業価値評価ガイドラインでも「インカム・アプローチ等による評価額よりも時価ベースにおける純資産価値の方が大きい場合」にはネットアセットアプローチ(バランスシート上の純資産を基礎とする評価手法)の利用が可能であると述べています(注1)。このような考え方に基づくと、市場価格のほうが会計上の純資産よりも小さい場合、つまり、PBRが1倍を下回っている状態はどのように考えられえるでしょうか。
上記のような論点が争われた裁判例として、東宝不動産事件(平成27年3月25日東京地決)があります。同事件において、申立人側は、趣旨として、①東宝不動産が土地、建物の所有及び賃貸借を主な業務とする会社であり、その資産の大半が不動産であるところ、市場株価が保有不動産の含み益を反映していないこと、②東宝が平成20年7月23日から同年8月25日にかけて行ったコマ・スタジアムの完全子会社化取引においては、公開買付価格の算定に際し、純資産法による算定結果を重視してコマ・スタジアムの株式価値を算定したこと、③時価純資産法は、企業が保有する資産の大部分が時価評価することのできる資産であり、事業の継続にとって不可欠なキャッシュフローがこれらの資産を源泉としている場合に適切な企業価値の評価方法であること、④完全子会社化により親会社が子会社に対して完全な支配権を取得するのであるから、純資産法により算定される評価額は、本件株式の価値の最低限を画することを根拠として、時価純資産に基づく価格を「公正な価格」として主張しました。これに対し、裁判所は、①含み益に関する情報が市場株価に適切に反映されていなかったことを認めるに足りる証拠はない、②コマ・スタジアム取引においては、その主要事業であるコマ・スタジアムの演劇事業を清算するなど、純資産法をも踏まえて企業価値を算定することが適切であった、③企業価値評価ガイドラインにおいては、株式の評価に市場株価法を用いずに時価純資産法のみを採用することは非常にまれであるともされている、④本件取得日当時において、東宝不動産の清算が予定されていたというような事情が認められない以上、完全子会社化を行う取引であるとの一事をもって、純資産法により算定される評価額が本件株式の価値の下限を画するなどということはできないとして、申立人の主張を退けました(注2)。
上記の議論のうち④について検討すると、確かに当事者の間では東宝不動産の清算は予定されていなかったものの、潜在的な買収者を含むM&A市場を考慮すると、本件は支配権の移動を伴う取引であり、支配権を獲得した投資家は会社を解散、あるいは資産を売却することが可能であり、事業継続よりも会社解散や資産売却のほうが高い利益を得られるのであれば、後者を選択することが合理的であるという点は明らかです。このような考え方に基づくと、支配権を伴う取引、およびこれに伴いスクイーズドアウトされた少数株主にとっての「公正な価格」が解散価値を下回ることについては合理的な説明が困難です。一方で、市場で少数持ち分の取引を行う投資家はそのような支配権を持たないため、たとえ非効率なものであっても事業継続を前提とせざるをえません。支配権プレミアムについての議論についての詳細は割愛しますが、支配権を有する株主がそれを行使することで企業価値を高めることが可能であるという理由により、多くの場合、支配権の移動を伴う取引の価格が支配権の移動を伴わない市場での取引価格よりも高くなります。そうすると、支配権の移動を伴う場合には純資産価額(解散価値)が価値の下限となりえるといえる一方、そうでない場合(市場取引の場合)には必ずしもそのような原則があてはまらないこととなります(注3)。
PBRに話を戻すと、もし簿価純資産が会社の解散価値を表すものであるとすると、PBRが1倍を下回っているという状態は、市場株価が会社の解散価値を下回っているということであり、非効率な経営により企業価値がマイナスの影響を被っているという可能性を示唆するものといえます。しかし、実際には、会計上の簿価純資産は一部の資産・負債についての時価評価を反映した時価純資産(不動産や金融資産の含み益等を反映したもの)とは異なります。これに加え、解散価値(清算価値)特有の問題もあります。会社を解散・清算する場合には一定のコストを要するのであり、通常の評価方法による一株当たりの純資産額が必ずしも清算価値を表すものではありません。一般に、株主にとっての清算価値とは、会社の事業を停止し、すべての資産を換金処分した結果残る金額のうち、株主に分配される金額を指します。会社更生法で規定する財産評定等に関するガイドラインとして広く利用されている「財産評定ガイドライン」(注4)では、「清算処分価額」の定義として、「更生会社の事業の全部を廃止し、企業を解体清算することを前提とするものであり、民事再生法上の基本的な財産評定基準額である処分価額と同義である」(同192項)と規定しています。清算を前提とする場合、短期間の期限のうちに清算を完了することが求められるため、一定の強圧性が生じます。このため、時価が得られる資産項目であっても、上場株式のように即時に換金することが困難な場合には、一定のディスカウントを適用すべきであるし、会計上の簿価があまり意味を持たないこともあります。例えば、生産設備に代表される有形固定資産はその会社の事業固有のものであり、その会社にとっての使用価値はあるものの、外部への売却・換金が難しいという場合があります。したがって、多くの場合、解散価値は簿価純資産よりも大幅に小さいものであると考えられます。
この点、上記の東宝不動産の事例のように、不動産や金融資産を保有し管理する資産管理会社の場合、解散や清算に係るコストが小さく、これら会社の(時価)純資産価額は、解散・清算価格に近いものと考えることができます。そうすると、このような形態の会社については、(時価ベースの)PBRが1倍を下回っている場合、資産の最有効活用ができていないという批判が起こりやすくなりますが、通常の事業会社の場合にはPBRが1倍を下回っていることを根拠として、非効率な経営により企業価値が棄損されているとみなすのはむしろ適切でない場合が多いと思われます(注5)。(池谷誠)
(注1)日本公認会計士協会編「企業価値評価ガイドライン(増補版)」、日本公認会計士協会、2010年、318頁。
(注2)本件において、筆者は申立人側専門家として関与し、筆者の意見書に基づくマーケットモデルに基づく市場株価の補正後の価格が公正な価格として採用されたものの、純資産法に係る主張は認められなかった。
(注3)池谷誠「論点詳解 係争事案における株式価値評価 第2版」(中央経済社、2020年)、第5章。
(注4)日本公認会計士協会「財産の価額の評定等に関するガイドライン(中間報告)」。
(注5)PBRが1倍を下回る企業一般についての分析はAlpha Commentary: PBRを考える①(以下リンク)を参照のこと。
Alpha Commentary: PBRを考える①~「PBR1倍割れ」を特別視することは適切か?はこちら。